Q&A セッション

 

質問:子供を育てるときに何が一番大切だと思いますか?

 

答え:わたしが最も尊んでいることは、子供たちと色々な事をするときに、主の中で行なうことです。ですから、子供たちがどの成長段階にいても、わたしが彼らと共にいるときに、もしわたしが主と一であるなら、その時を尊びます。こどもたちもそれを尊んでくれました。でも、わたしが主と一でなかったときのことは、あまり思い出したくない時です。あなたが眠れない夜は何度もあるでしょう。あなたが緊急治療室にいるときもあるかもしれません。子供たちが幼稚園に行くとき、あなたは緊張することでしょう。でも、主と一になること、また彼に生きることを覚えておいてください。あなたが主に生きるなら、子供たちははぐくむ愛の雰囲気の中にいることができるでしょう。

 また、これはおもに人間的な事を行うことと関係があります。わたしは自分の子供たちをキャンプに連れて行くとき、高嶺の真理について語ることはできません。しかし、後になって、彼らにそうすることができました。

 

 

質問:わたしは在職です。仕事の中で主を経験し享受するためには、朝ごとをして勝利を得る必要があると聞きましたが、実際的に仕事の中で、兄弟はどのように主を享受していますか?

 

答え:わたしたちの主イエスが全時間奉仕をしたのは、三年半だけでした。主は幼いときから30歳になるまで、大工として働きました。彼には少なくとも6人から7人の兄弟姉妹がいました。彼は貧しい中で生活しました。しかし、彼が大工として働いていたとき、彼は御父のゆえに生きていました。ですから、わたしたちの中に生きている主は、どのようにしたらこのように生きれるかを知っています。主には自分の寝室があったと思いますか? 自分のパソコンを持っていたと思いますか? 彼はこのような状況の中でどのように生きるかを知っています。今、彼はその霊としてわたしたちの中におられます。神・人の生活を再び生きることを待ち望んでいます。そして、わたしたちの側では、少しずついくつかの事を学ぶ必要があります。

 第一に、毎日、わたしたちは主から恵みを受ける必要があります。わたしたちは彼のゆえに生きます。ですから、わたしたちは彼を食べ、彼を飲み、彼を吸い込み、真の復興を持つ必要があります。そして、毎日、恵みを求めて祈ります。わたしたちはこの事を朝に認識すべきです。すなわち、わたしたちは命の恵みとしての主がいなければ、生きることができないことを認識すべきです。

 今、仕事をすることに関して、あなたが直ちに行なえることがあります。そして、もう一つのことは、あなたは最終的に行なうことです。直ちに、あなたはこのように祈ることができます、「主よ、わたしは今働いています。わたしは自分の仕事において忠信でなければなりません。わたしは自分のしていることに集中する必要があります。主よ、わたしと一であってください。わたしの中で生きてください。わたしの中で働いている方となってください。わたしの中で生きてください、それはわたしが働いているときにあなたを生きるためです」。

 しかし、最終的に、あなたは何か別のことを経験するでしょう。今はまだあなたの魂と霊は切り離されていません。ですから、あなたの霊はあなたの魂の内側にあります。働いたり勉強するために、あなたは魂を使わなければなりません。しかし、あなたが魂を使うとき、霊の意識を失ってしまいます。しかし、お昼休みになるとき、あなたは魂と霊を使って御言葉を読んだり、務めの書物を読むことができます。それから、仕事に戻ります。それから、あなたは主のことを5時間考えないかもしれません。これはすべての人の経験です。しかし、最終的に、主はあなたの魂と霊を切り離すでしょう。その時、あなたの霊は魂の中に閉じ込められなくなるでしょう。外側では、働いていますが、内側では主と交わりをしているようになります。

 今、わたしは本質的に同じ質問をリー兄弟にしたことがあります。わたしは、「リー兄弟、わたしは高校で先生をしています。そこにいるのは大部分が難しい生徒たちです。わたしが教えているときにどうしたら主と一であることができるでしょうか?」。そうしたら、彼はこのように答えました、「外側では、あなたは教えていますが、内側では、それは『おお、主、アーメン、ハレルヤ』です」。これがリー兄弟が言ったことです。彼が語っていたとき、その霊はわたしに語りかけて言いました、「あなたは、魂と霊が切り離される必要がある」。ですから、あなたが集中して働いていて、数時間後、「わたしは主に集中していなかった」と気づいても、宗教的になって自分を打ち叩かないでください。あなたは内側の状況を理解する必要があります。しかし、あなたは毎朝、恵みを受けることが出来ます。そして、あなたは自分が働いているときに主に内側に生きてくださいと祈ることができます。

 いま、わたしはあなたを怖がらせたくはありません。これは実は、グッドニュースなのですが、姉妹たちはこのグッドニュースを聞くとき、おびえます。いいですね、わたしたちはみなヤコブですよね? そうですよね? 創世記第32章でヤコブに何が起こりましたか? 彼は砕かれました。ですから、ある日、あなたの外なる人は砕かれるでしょう。それは大いなる日となります。その時、あなたの霊は流れるでしょう。そうすれば、あなたは外側で働いていても、内側では「主イエスよ、あなたを愛します」となります。  

 夏の訓練のメッセージ2は、ヤコブが砕かれることを取り扱います。あなたが怖がるなら、そのメッセージの間、家にとどまっていても構いません。しかし、最終的に、あなたはそれを恐れなくなるでしょう。むしろ、あなたは古くなることや依然として完全に自己の中にいることを恐れるべきです。砕かれることについて心配しないでください。そのために祈る必要はありません。ただイエスの中で喜んでいてください。

 

 

質問:日本にいるときはルーティンな生活なのですが、海外に出張などで行くとき、主を追い求めるのが難しいです。あまり聖徒たちとも会えませんし、ルーティンな生活ではないからです。兄弟は、旅行しているとき、どのように追い求める心を保っているのですか?

 

答え:わたしたちの人生には、たしかに多くのルーティンがあります。時にはルーティンはある程度霊的なエクササイズを助けてくれます。しかし、ルーティンは物事を古びさせることもします。ですから、わたしたちは命の経験に関して理解する必要があります。ルーティンな日々を送っているときも、この1月と2月にしたように世界中を旅しているときも、基本的な命のエクササイズは変わりません。わたしが家にいるとき、わたしは呼吸する必要があります。飛行機に乗っているときも呼吸する必要があります。今年18個目のベッドで寝ているときも、呼吸する必要があります。ですから、命の実行は継続的なのです。それは絶え間ないものです。そうでなければ、それは命ではありません。わたしたちがみな呼吸しているように、またわたしたちの心が脈を打っているようにです。あなたはそれはルーティンであるとは言わないでしょう。それは有機的に一貫しています。ですから、あなたはどこにいてもこのことに内在的に触れる必要があるのです。11月にアメリカの北西部でわたしは特別集会を持ちました。主は命の恵みでした。それから、わたしは家に戻ってルーティンな仕事を行ないました。主は命の恵みでした。それから、金曜日の朝早く、わたしの妻は言いました、「あなたは気絶して、床に倒れていたのよ。そして、あなたは10分間も意識がなかったのよ」。妻は対応してくれましたが、わたしは何も覚えていません。それから、お医者さんの兄弟が救急車を呼んでくれました。彼らはわたしを病院に連れて行き、隔離室に入れました。しかし、内側には何の変化もありませんでした。わたしはなおも呼吸していました。言い換えると、依然として主を呼吸していたのです。それは問題ありません。命は環境がどうであれ継続します。ですから、パウロのように環は満ち足りることを学びます。ですから、わたしは昨晩ホテルに着きました。岸田兄弟が何を食べたいですかと聞いてきました。わたしは「日本食、さしみがいいです。タコはできればなしで」と答えました。そして、今晩の食事は何か別のものでしょう。しかし、パウロは「わたしは満ち足りることを学んだ」と言いました。これはあなたにショックを与えるかもしれませんが、非常に実際的な意味で、外側のものはどれも問題ではありません。それはわたしたちの魂に影響を与えるかもしれませんが、霊には影響は与えません。このことに関して他に三つの事柄があります。

 それらのうちの一つは、わたしたちが自分の三部分からなる存在全体を顧みる必要があることです。すなわち、体、魂、霊を顧みる必要があります。わたしたちは健康な食事をし、運動し、休息を取る必要があります。それから、わたしたちにはすべてに適合する命があることを認識する必要があります。わたしたちの内側に絶えず流れているこの命は、どのような状況にも適合することができます。ですから、わたしたちは異なる環境にいても、キリストであるこの命はそれを知っています。ですから、直ちに、その命はその状況の中で生き、わたしたちに供給します。ですから、わたしは緊急治療室にいたとき、ある意味で、何か特別な事のために祈る必要はありませんでした。わたしはただ主と一になれば、その命は何をすべきかを知っています。それから、もう一つの事は、わたしたちは最終的に、真にからだの中で生きることを知ります。旅行する同労者たちが今していることをすることができるのは、姉妹たちが祈っているからです。兄弟たちも祈りますが、特に姉妹たちがこの分を持っています。彼女たちの祈りがなければ、わたしは生きることができません。彼女たちの祈りが、からだの供給を解き放ちます。言っておきますが、英雄的なものは何もありません。キリストのからだには英雄はいません。キリストのからだには肢体がいるだけです。

 

 

質問:弱くなってしまった訓練卒業生をどのように顧みたらいいですか?

 

答え:ある人は弱くなります。ある人はもともといつも弱い人です。パウロはローマ第15章で何と言っていますか? 「強い人は弱い人を顧みるべきであって、自分を喜ばせるべきではありません」。ですから、わたしたちは彼らを愛し、はぐくみ、養い、彼らと共に主を享受します。しかし、これですべてではありません。わたしたちは自己を養うことなくこのことを行なう必要があります。今、アナハイムで第四期生である兄弟がいます。彼は非常に優しい心を持つ若い兄弟ですが、小心な者です。パウロはこのことをテサロニケ人への手紙第5章で語っています、「小心な者を慰めなさい」。ですから、一方で、わたしたちは彼を慰める必要があります。わたしは彼が優しい心を持っていると言いました。ですので、彼はいつも恋に落ちますが、あまり賢い方法においてではありません。彼は何か悪いことをするわけではありませんが、自らを苦しめるのです。ですから、一方でわたしたちは彼を慰める必要があります。もう一方で、わたしたちは、自分が強くても弱くても自己を否まなければならないことを彼が見るように助ける必要があります。弱さは事実であるかもしれません。弱い状態にあるかもしれません。しかし、それは決して言い訳の理由にはなりません。決して肉の中にいてもよい言い訳の理由はありません。

 「主よ、疲れました」と言うかも知れません。それは正しいです。「主よ、体調が悪いです」それも正しいです。しかし、それらの事はあなたが自己や肉の中にいてもよいという資格をあなたに与えることはありません。あなたはそうであっても主を吸い込むことができ、その霊を飲むことができるのです。

 今、わたしたちは弱い人を顧みるとき、二つのことに気をつけなければなりません。このことはわたしたちが人を牧養することにも当てはまります。まず、人そのものを顧みてください。それから、問題を顧みてください。実際、わたしたちはどんな問題も解決できないのです。自分の問題すら解決できません。ですから、わたしたちは人を顧みるのです。

 もう一つの事柄は、わたしたちはこれらの人たちを顧みているときに、この必要で圧倒されないようにすべきです。わたしたちはこの事がわたしたちをそらして、神のエコノミーを積極的に遂行できなくするようにさせるべきではありません。