主に生きる

-Live to the Lord-

 

 今、三つ目のポイントに来ます。今回は四つの単語です。わたしたちは三つから四つになりました。わたしは物事がもっと難しくなると言いましたね。

 主に生きる。コリント人への第二の手紙第515節でパウロは言います、「なぜなら、キリストの愛がわたしたちに押し迫っているからです。そこでこう判断しました。ひとりの方がすべての人のために死なれたからには、すべての人が死んだのです。それは生きている者が、もはや自分自身にではなく、彼らのために死んで復活させられた方に生きるためです」。 

 ここの「主に生きる」という表現は普通ではありません。わたしが「主のために生きる」というなら、あなたはわかるでしょう。「主と共に生きる」、これも理解できます。「主の中で生きる」ことも理解できます。「主によって生きる」、これもそれほど理解するのは難しくありません。しかし「主に生きる」とはどういう意味でしょうか? 

 パウロはこれについてローマ人への手紙第14章で語っています。召会生活についての文書の中で彼はこう言っています、「わたしたちのうちだれも、自分自身に生きるものはなく、自分自身に死ぬ者はいないからです。わたしたちは生きるにしても、主に生きるのであり、死ぬにしても、主に死ぬのです。こういうわけで、わたしたちは生きるにしても死ぬにしても、主のものです」(7-8節)。今、あなたがたの何人かは全時間で奉仕しています。そして何人かはいわゆる普通の仕事をしています。何人かは家で全時間の母親です。わたしたちは全時間で奉仕している人たちだけが全時間奉仕者であると考えるべきではありません。全時間で奉仕している人たちはもしかすると全時間で奉仕していないかもしれません。また全時間で奉仕していない人たちは全時間で奉仕しているかもしれません。あなたはこのように言うかもしれません、「兄弟、二人の子供をもつ若い母親が全時間であり、旅をしている同労者が全時間ではないかもしれないという意味ですか?」。それがわたしの言いたいことです。なぜなら、リー兄弟はこのことについてわたしたちに開いてくださったからです。全時間で主に仕え、主のために全時間になるということの内在的な意義とは何でしょうか?

 それでは、わたしに質問させてください。あなたは全時間で何をしていますか。あなたが全時間で行なう一つのこととは何でしょうか。あなたは生きています。あなたはあなたの全生涯において全時間で生きています。全時間になるとは、主「に」生きることです。自分自身「に」生きることではありません。今、「~に生きる」とは何を意味するのかを理解してみましょう。あなた自身「に」生きることは、自分の指示の下で生きることであり、自分で立てた目標に向かって生きることです。若い成人した兄弟姉妹の何人かは、彼らの親「に」生きているかもしれません。両親は言うかもしれません、「わたしたちはあなたに会計士になってもらいたい」。「でもお母さん、お父さん、わたしは音楽が好きです。わたしは音楽を勉強したいのです」。「いいえ、あなたは会計士になる勉強をしなければなりません。あなたのためのわたしたちの目標はこれです」。これは両親に生きることです。

 自分自身に生きることは、わたしたちが自分で自分の人生の方向性を定めることです。またわたしたちがその目標を設定します。すべての堕落した人は自分自身に生きます。しかし、ひとりの方、わたしたちの主がわたしたちのために死なれました。それは、わたしたちの人生の中に「もはや~ない(no longer)」があるようになるためです。彼がすべてのために死なれたのは、生きている者がもはや自分自身に生きることがないためです。

 アナハイムには、おそらく320人の訓練生がいます。来月、100人以上が卒業します。しかし将来、わたしたちは二種類の結果を見るでしょう。何人かにおいては、彼らの心の中に「もはや~ない(no longer)」があります。わたしはもはや自分自身に生きません。わたしはかつて自分自身に生きていました。しかし、それは姉妹が結婚する時のようです。彼女は自分自身に生きることはできません。彼女は今や自分の夫に生きなければなりません。また別の訓練生たちの中には「もはや~ない」がありません。今から十年後あるいは二十年後、わたしたちは何が起こるかわかりません。あなたの中に「もはや~ない」がある必要があります。わたしはもはや自分自身に生きません。わたしは日本に生きません。わたしはお金に生きません。わたしは主に生きます。それは、わたしが彼の管理の下におり、彼が目標を設定していることを意味します。

 これがレースを走ることとどのように関係しているかを見ましたか。彼が行程を定められます。彼が方向を定められます。彼はいつ終わりが来るかをご存知です。彼は目標が何であるかを知っておられます。そして今わたしたちは彼に生きます。ですから、わたしたちはもはや自分自身の行程を定めません。わたしたちはひたすら彼を見つめます。これが彼に生きることです。「主よ、ここでわたしはこの状況にいます。わたしはあなたに生きます。今日、わたしはどのようであればよいでしょうか? 集会で何を言えばよいでしょうか? あなたが判断してください。そこでパウロは言います、「彼らはもはや自分自身に生きるのではなく、彼らのために死んで復活させられた方に生きるのです」。彼は復活させられました。ですから、キリスト、すなわちわたしたちがその中で、またそれに生きているキリストは、復活されたキリストです。彼は復活の命です。彼はわたしたちの中にその霊として住んでおられます。彼に生きるとはその霊に生きることです。なぜなら主はその霊であるからです。

 わたしはあなたがたがこれらの三つのポイントを暗記したとは思いませんが、あなたがたがそれを覚えているだろうと信じます。ビジョンに従いなさい。このビジョンはあなたの魂の命を切り分けるでしょう。ヨセフの生涯を見てみなさい。ビジョンは決して成就しないかのようでした。しかしそれが神がビジョンを成就する道でした。あなたの内でビジョンに統治させなさい。ビジョンにあなたを支配させなさい。あなたを制御させなさい。あなたを方向付けさせなさい。

 二週間後には、天のビジョンについての特別集会があります。ビジョンに従いなさい。レースを走りなさい。レースはあなたがたの前に置かれています。走り続けなさい。あなたは27歳かもしれません。走りなさい。34歳になっても、走りなさい。41歳になっても、走りなさい。58歳になっても、走りなさい。66歳になっても、走りなさい。74歳になっても、走りなさい。82歳になっても、走りなさい。99歳になっても、走りなさい。あなたが走り終えるまで走りなさい。あなたの走ることを彼に生きることとしなさい。もはや自分自身に生きるのではありません。彼に生きなさい。ビジョンに従いなさい。レースを走りなさい。主に生きなさい。

 どうか主がわたしたちを祝福し、わたしたちが主にお会いするまでこの道を生きることができますように。